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質問と回答をまとめてみた

最近TwitterやFacebookへの投稿を見た周囲の方々からいくつか質問を頂くことがあります。そこで、質問と回答をまとめてみようかと。


1.「ニ忍はいったい何なんですか?」

ニ忍ブログ』などで活躍中の岩澤忍者と中原忍者、そして最近加入が噂されている「ゆとり忍者」の2.5人編成で現在は活動している弊社の忍者。忍者たちはサムライファクトリーの社員(という設定)です。忍者活動を通じてサムライファクトリーという会社、サービスを広めていくことをミッションとしています。



2.「サムライなのに忍者でいいの?」

サムライよりも忍者の方がキャラ立ちしてるのでw


サムライファクトリーという会社名になったのは2005年。それ以前は忍者システムズという会社で『忍者ツールズ』を運営していました。業界的には最近は「サムライさん」と呼ばれますが、昔は「忍者さん」と呼ばれることが多かったです。「なぜ『忍者ツールズ』というネーミングにしたのか?」という疑問も出てくるかと思いますが、それは単純にpod氏が忍者好きだったからです。あと、アクセス解析って忍者っぽいじゃないですかw

グローバル展開を考えた時に海外での忍者のイメージが少しよくないってのもあって、社名変更の時に「サムライ」を名乗ることになりました。昨今「サムライ○○」と「サムライ」が使われすぎているので少しチープ化してしまったのが懸念点で、数年前に「社名を忍者にしようか?」という話も出てきましたが、2005年から現在までサムライのままできています。


なんとなく「忍者=コンシューマ向け」「サムライ=ビジネス向け」という区分けを意識してやっています。



3.「一体何の会社なの?ビジネスモデルは何?」

同級生などから多い質問です。「いつも忍者の写真ばかり投稿してるけど、遊んでるの?」などともw

事業は大きく分けて二つ。『忍者ツールズ』を中心としたサービスと『BIZ SAMURAI』を中心としたサービス。
『忍者ツールズ』は無料でブログとかアクセス解析とかをレンタルして広告収益を得るモデルと有料版、あとは『忍者AdMAX』のようなアドテクサービス。『BIZ SAMURAI』を中心としたサービスは『Shinobiライティング』でお馴染みのクラウドソーシング、昔からやっているSEO事業、あとは『影武者』などのマーケティングツールをASP提供などなど。そんなことをやっている会社。企業理念などはコチラをごらんください。

ちなみに僕はデザイン系作業を中心にその他もろもろやっています。決して遊んでいるわけではありません。



4.「会議室はなぜああなったの?」

最近コチラのブログとかで取り上げられている会議室。元々は練馬の二代目オフィスに回転扉を設置したのが始まり。研修旅行で行った伊賀の忍者屋敷にあった回転扉が格好良かったので、オフィスにも設置してみたけど、あまりユーザビリティがよくなくて・・・。池袋移転を機に廊下なども装飾してみて、今の渋谷のに至るわけですが、ほんとは渋谷の会議室か廊下に滝とかを設置したかったのですが、ビル側からNGが出てしまって。いつか実装したいけど。

ただ、会議室などの「外見」だけでなく、執務スペースの方もこれからは考えていければなぁと思ってる。この3年くらい。執務スペースの方は装飾造形よりも「快適さ」などを考慮すべきなんだろうなぁ、と。そもそも「次はビルじゃなくて一軒家だな」という声も左耳から聞こえますが。


これまでのオフィスの様子などをサンドボックスにまとめたのでお時間のある時にでもごらんください。
http://takanori.sdbx.jp/ninja_samurai/



5.「コーポレートサイトのメンバーが凄いけど・・・」

その件については以前書いたエントリーをごらんください。




以上です。「会社案内はなぜあれに?」とかはまた次回。


最近採用とかしているみたいなので、採用ページもしくはWantedlyをごらんください。




ついこないだの事

あれから2年が経った。昨日までの暖かさとはうって変って今日は寒い。あの日も寒かった。そういえばパラっと雨が降った。


あの時、今は某社に転職してしまったdcさんが主導して『漫画寄付キャンペーン』なるものをやっていた。当時書いた記事をdcさんが読んで「思ってた事をだいたい書いてくれた」と言っていたのを覚えている。

僕達はインターネットを中心とした企業活動を行っています。野球選手がプレイをする事で被災地に想いを届けるのと同じように、僕達はインターネットのサービスを粛々と作り続けて、みんなに感動と幸せを届けるのが使命だと思います。震災から一ヶ月、ブログのサーバ増強や新機能追加など、また、表に出ない形で毎日の業務を粛々と行ったメンバー。これからも理念に基づいて活動していき、少しでも日本の復活に携わっていきたいと思います。

その一方で、「何かをしたい」という気持ちも当然あるわけで、その一つの形が今回の『被災地の子供たちに漫画を送ろう』キャンペーンというわけです。若い頃に「阪神大震災」や「9.11」を目の当たりにし、強い衝撃として心に残っているメンバーも多い事でしょう。今回の未曾有の大災害を見て、何かをせずにいられなかったのだと思います。

そして忘れてはいけないのが、『NINJA TOOLS』のユーザーの皆様や漫画を提供して頂いた皆様のご協力です。『NINJA TOOLS』のユーザーの皆様には『忍者ポイント募金』でもご協力頂き、また今回の企画でもとても力になりました。多くの人達に支えられていることを僕達自身も実感しました。


基本的に今でも同じような事を思っています。

2011年3月の事は震災以外にも個人的には心を不安定にさせる要素があるけど、これからもなんとかやっていきたいところ。


ブログやサンドボックスはデータを保存することができるけど、そのデータの多くは記憶。


2011月4月13日 『【続】みんな頑張ろう』
2011月4月11日 『みんな頑張ろう』
2011月4月26日 『春休み』
2011月4月24日ibaraki_fukushima



カラオケと人生の話

先日約1年ぶりにカラオケに行ったのですよ。夫婦で3時間も唄いました。楽しかった。


僕が初めてカラオケに行ったのは高校1年の時。1992年です。中学の頃からカラオケボックスなるものがちらほらと建立されていて、ブームになりつつあったのですが、恥ずかしがりやの僕は誘いを断り続けていました。高校入学後、どこのカラオケに行ったか忘れたけど、とにかく行くことになってしまって、JITTERIN'JINNの「プレゼント」を唄ったわけです。ていうか今「じったりんじん」が一発で変換されたのにビックリしました。まぁそんなわけで、それからはブームということもあったのですが、頻繁にカラオケに行くようになりました。一回やってしまえばもう平気です。

当時「通信カラオケ」などというものは無く、CDかLDという分類でした。CDは使い回しの映像。初期は今のスクリーンセイバーみたいな動く幾何学模様がひたすら流れているというトランス的な映像の下に歌詞が出るカオス感満載な感じでした。かったるいドラマ仕立ての映像も今となっては思い出です。映像はしょぼいけど曲数が多いのがCDの特徴。LDは個別の映像付きなので曲数が少ない。高校生の頃はLDの部屋なんて入ったことないです。

基本的には「1部屋1時間○○円」という料金設定だったと思うけど、最初の頃は1曲100円ってのもあった。そういうカラオケに行く時は事前に小銭を用意して行かなければならない。そして料金入れの上に100円玉を積んでおくのです。さすがに1曲100円システムは廃れていったけど、採点機(外付け)の場合は採点1回100円とかもあった。

もうここまで書いてみたけど、90年代前半感がやばいですね。今の若者にはもはや何を言ってるのか理解できないでしょうね・・・。

90年代前半はカラオケ全盛期でCDもめちゃくちゃ売れていました。結構「カラオケで唄いやすい曲」というのがもてはやされた気がします。Being系とか。カラオケで唄いたいがためにCDを買うというサイクルがあったんだと思います。僕もシングルを相当買いました。

大学に受かったので早速バイトを始めたのですが、それが地元のカラオケ屋。個人経営の店で、当時はCDとLDの部屋しかなかった。店主のおばさんから「だいぶ客は減ったのよ」と言われたものの週末はとんでもなく忙しくて、ゼエゼエいっちゃうくらい疲れた。いろんな部屋から老若男女が唄う「アジアの純真」が聴こえてきた。店はやがて通信カラオケを導入した。個人的にはDAMが好き。歌本がどんどん分厚くなっていった。「この先、歌本ってどうなっちゃうんだろう」と不安に思ったものです。

最盛期は地元の駅周辺に4軒もカラオケ屋があった。東京の端の小さな街にもかかわらず。しかし、僕がカラオケ屋でバイト始めた96年には1軒しか残ってなかった。そしてその店も今ではもう無い。

大学を中退した後もグダグダした毎日を送っており、定期的にそのカラオケ屋でバイトしたりしてた。一時期は店長になりそうになった。もうこのままカラオケ屋を引継ごうかなぁとも思ったが、ひとまず固辞した。そんなカラオケ屋に後輩のバイトとして入ってきた女性がいた。その女性は日中はwebデザイナーをやっていて、夜に小遣い稼ぎとしてカラオケ屋にバイトにきた。すぐに辞めてしまったのだけど、家も近かったのでたまに遊んだりしていた。その女性が片手間で手伝ってた会社のwebデザイン担当を僕が引継いだり、10対10という壮絶なコンパ※を共催したり、たまに連絡を取り合っていた。

※大変すぎて飲んでもいないのに吐いたという思い出が。




数年後、2004年1月。その女性から久しぶりにメールがきた。
「友達と会社を作ったからきてよ。デザイナーが欲しいのよ。」と。会社名を聞くと「忍者システムズ」と返信があった。「忍者?怪しい会社?」と返信した。


2004年2月16日に僕は忍者システムズの一員となった。
来週であれから丸9年、そして10年目を迎える。